「革命家」とは「北朝鮮の工作員」のことでした。
拉致被害者の蓮池さん講演(中) 突然の拉致「革命家になれ」
丹波新聞 2021年8月25日
私と彼女は両手両足を縛られ、袋詰めにされ、声を出せないよう猿ぐつわをされた。担がれてボートに乗せられ、沖合の工作船に移された。
私と妻は別々の船室に引きずり込まれた。何も話せないような状況だったが、注射を打たれた。おそらく睡眠剤ではなかったか。後で聞くと、殴ったので化膿止めの注射をしたと言っていた。その後はほとんど覚えていない。
◆「ようこそ北朝鮮へ」
北朝鮮の日本海側の北部に行けば、清津という大きな港がある。清津(チョンジン)の近くにある、彼らの秘密の港に連れて行かれたようだ。
完全に気力がない私は、両脇を抱えられ、車に乗せられた。着いた所が、高台にある連絡所と呼ばれる場所。中年の男が私を迎え、日本語で「ようこそ。ここは朝鮮民主主義人民共和国です」と言った。それから10日間、そこにいたが、恐怖だった。何をされるか分からない。一体、これから自分は生きていけるのかという不安の中で暮らした。
食事は喉を通らなかった。しかも、私を拉致した戦闘員が近くにいて、上半身裸で私に「一緒に食べよう」と手招きした。食べられるわけがない。顔は腫れ上がり、よく見えない状況だった。
10日後、3人の監視の元、電車に乗って平壌まで連れて行かれた。平壌駅で待っていた車に乗り、また、平壌市を突っ切り、山の中に連れて行かれた。「いよいよ終わりか。山で殺されるのか」―そう思った。
しかし、そこで「招待所」と呼ばれる施設に入れられた。平壌は山に囲まれているが、山の谷間に、鉄条網で囲われた招待所区域がある。女性が1人ずつ配置されていて、入って来た人に食事を作ったり、掃除をしたりする、家の管理をするおばさんだった。
◆始まった思想教育
招待所に入ってくるのは工作員と、その卵たちだ。そんなことは全く知らないまま招待所に入れられた。2日後に幹部が通訳と来て、私は「何でこんなことをするんだ」と聞くと、にやっと笑って「そう慌てるな。わが国は素晴らしい国だ。色々見て、聞いて、学んで、立派な革命家になりなさい」と言った。意味が分からなかった。
「早く日本に帰してくれ」―。人が来るたびにそう言った。最初のころは、幹部は「そのうち良いことがあるから」とか言っていたが、最終的には「言うことを聞かなければ、ただじゃ置かないぞ」という雰囲気に変わってしまった。怖くなり、そのまま言うとおりに教育を受けた。
一方、朝鮮語の勉強は一生懸命やった。招待所にいたおばさんは“おしゃべり”で、招待所の秘密などをうまく聞けるかもしれないという感覚があったからだ。案の定、私が向こうのことを知ったのは、このおばさんを通してだった。そうやって将来は工作員にするための第一歩としての思想教育、語学教育が始まった。
◆大韓航空機爆破
次に、われわれが住んでいる隣の住居に入ってくる若い工作員に日本語を教える生活が5年くらい続いた。だが、これも87年末にストップした。背景には、大韓航空機爆破事件がある。犯人の金賢姫は逮捕され、北朝鮮の工作員だと認めた。同時に、「日本人から日本語を教わった。その日本人は、日本に子どもを置いたまま拉致された女性だった」と言った。
日本も捜査に入り、その女性は(日本から姿を消していた)田口八重子さんではないかと、金賢姫に田口さんを含む十数枚の女性の写真を見せた。金賢姫は田口さんを一発で指さしたという。
工作員に日本語を教える際、拉致されたことや、自分の身分は秘密だったが、教育の途中で伝わる。さらには、おしゃべりな招待所のおばさんが黙っておらず、「日本から連れてこられた人」と話したようだ。工作員が捕まった時に、北朝鮮は「拉致被害者から語学を学んだ」と話すようなことが今後も起こりかねないとして、日本語教育がストップした。これが87年暮れから88年にかけてのことだ。
その後、われわれは翻訳の仕事をさせられた。1カ月分くらい送られてくる日本の新聞や雑誌だ。チェックされた記事を翻訳した。拉致被害者として注目されるようになったので、いろんな場所を転々としながら隔離されて暮らすようになった。
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