裁判官および裁判所職員は、特別職国家公務員であり、国家公務員法は適用されない。
ちなみに検察官は、法務省管轄の一般職国家公務員で公務員法に縛られる。
裁判官は人を裁く「聖職」として、誇り高く高邁な精神と使命感を持つと思われるが、人間ゆえ任期中は同期に遅れを取ることを憂い、自分を含む家族の安全を願い、退官後の「第二の人生」に思いを巡らすことがあっても至極当然のこととして理解できる。
また裁判官は建前上独立し、外部からの影響を受けないことが憲法で定められている。「独立」とは、裁判官人事を支配する最高裁判所事務総局、あるいは最高裁判所、高等裁判所、同僚、上司などのしがらみ、そして行政などのあらゆる権力からの独立を意味している。しかしその人事権は最高裁判所が握っており、その意向に反する判決は差別的処遇(左遷・昇進拒否)に反映されていることは問題があるとして、アメリカの法学界からも常に指摘されている。
その最高裁で、下級裁判官人事に特化したポストが「最高裁判所事務総局人事局任用課」であり、ボスは「最高裁判所事務総局人事局任用課長」である。(平成28年4月1日より)
「判決は自分が書きたいことよりもこういう風に書いた方が評価につながるかも」などといった「利己的自制心」の芽が育む大きな畑が用意されている、というわけである。
はてさて、自身の下した判決がどう内部評価されるか、上司や同僚のマイナス評価はどうだろうか、昇進できるだろうか、などと考え悩むことがあって「司法権の独立」が担保されていると言えるだろうか? アメリカ法曹界の懸念は至極当然である。
・・・・・ 裁判所内部のどこかに悪玉菌が入り込んでいたら ・・・・・
定年が視野に入れば、裁判官たちもまた「第二の人生」に思いを巡らすことになる。
外部からは、「いいなぁ。弁護士として食べていけるんでしょ?」などと思われがちだが、現実はそんなに甘くない。
裁判所の頂点に君臨するのは最高裁長官と最高裁判事の15名だが、このうち裁判官からの昇格は6名。あとの9名は検事や弁護士からの登用である。全国約3,000人の裁判官の中から最終的に6名を選別する一方、定年を迎える同年代の高裁長官に対し、一種の論功行賞として第二の職場を斡旋することが多い。いわく、三つの受け皿(天下り先)である。
<受け皿その1> 政府の「行政委員会」などの「委員ポスト」
<受け皿その2> 「公証人ポスト」
<受け皿その3> 「簡易裁判所の判事ポスト(大物裁判官の指定席)」
(資料:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52035?page=3)
しかし、多くの裁判官はこの受け皿の恩恵を得られないのも事実である。
ちなみに裁判官の定年は、高等・地方・家庭は65歳、最高・簡易は70歳とされている。
退官後、大学やNPO法人など、受け入れ先も多数考えられるが、弁護士業務に就く流れが自然である。結果、「法的に許された独禁法に縛られない日弁連」に所属しなければならないことになる。
弁護士はそれぞれ独立した個人事業者であるが、日弁連はその掌握組織である。
弁護士の指導や連絡および監督をするばかりではなく、日弁連への入会=登録が日本国内で「弁護士業」を行う上での必要条件となっている。
定年後の弁護士を通称「ヤメ判」と言う。ヤメ判が、企業や弁護士事務所の「客員弁護士」として隠居仕事をするだけの楽なポジションならば良いが、個人で必死に弁護士業務を行わなければならない者もいる。さて、過密業界である上、年齢や弁護士としてのキャリア不足にもかかわらず、仕事をしなければならないということは、退職金や年金以上に何らかの理由でお金の一定確保が必要だと計画している裁判官も少なくはないだろう。
ならば、在任中は当然、第二の人生設計のために弁護士会ににらまれる経歴は残したくない。
結果、無意識下であっても日弁連や有力弁護士へのバイアスが生まれることも考えられる。
・・・・・ 有力弁護士や日弁連内部のどこかに悪玉菌が入り込んでいたら ・・・・・
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