「現行の日本国憲法は、ホイットニー少将率いるGHQの改憲作業チーム(ケーディス大佐以下21人のスタッフ)により、わずか一週間で作成された。スタッフの一人にルース・エラーマンという女性がいた。彼女は改憲チームの全体を統括する運営委員会の一員で、ケーディス大佐の秘書的な存在であった。その彼女が書き残した日誌には「日本の歴史を書き換えるという名状しがたい情熱に取りつかれた」とある。
つまり、日本の歴史と伝統を否定し、米国、厳密にいえば、彼らスタッフの価値観で日本を変革することが憲法起草の原動力となっていたのである。」
荒谷卓 「戦う者たちへ」より
日本の現状を深く分析しながら淡々とした筆致で指摘し、日本再生への一人ひとりの取り組みを可能にする心構えを伝える良書です。本を手に取った読者の方に向けられた、著者である荒谷卓氏からのメッセージを以下に引用いたします。
日本の大義と武士道
戦う者たちへ
はじめに
読者の皆様へ
「ダチョウは危険が迫ったとき、頭を砂に突っ込んで危険を見ないようにする」という。これは「不安全」な実感から目をそむけて「安心」を欲する象徴的な譬え話である。
今の日本人の多くは、この譬え話でいうところの「ダチョウ」に似ていないだろうか?
言い換えれば、不安全なものを不安全と認める勇気が失われているのではないか?
身近な例では、北朝鮮の拉致問題があげられる。政府が認めた拉致認定者は現在まで17人だが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による拉致の可能性を調査する市民団体である「特定失踪者問題調査委員会」によれば、「拉致の疑いが否定できない特定失踪者は250人以上にのぼり、うち拉致の疑いが高いとした失踪者は70人以上に達している」という。
この人たちは、まったくの一般市民で特別の人が狙われたわけではない。しかも、拉致現場は日本全国のみならず海外にまで及ぶ。とくに問題なのは、拉致に関わった犯人が、いまだ一人も捕まっていないということだ。
この拉致の状況をシミュレートするために、関係者とともに実際に拉致状況を再現してみた。その結果、国家も国民も警戒心の薄い日本では、どこでも簡単に日本人を拉致できることが認識できた。とはいっても、一人の人間を拉致するためには、情報をとって準備をし、拉致した被害者を国外に連れ出すのに、少なくとも十名以上の協力者が必要だ。しかも、これまでの手口からは、その土地に詳しい人物、つまり現地の日本人が加担していないと難しいということもわかった。
このような拉致がこれまで頻繁に繰り返され、その犯人が一人も捕まっていないのに、誰もこの状況を危険視しないのはなぜだろうか?
同時にこれは国家の問題でもある。現実に拉致被害者が多数存在している。にもかかわらず政府は、「拉致はあってはならない」と言うだけで、新たな拉致防止の具体案もとらず、あたかも拉致は過去の出来事であるかのような態度である。通常、このような事案に対しては、まずは新たな被害者を出さないための対策をとったうえで、すでに被害にあった人たちの救出にあたるべきところだ。
現憲法の前文に記されている「平和を愛する諸国民の公正と信義」に期待するあまり、国際社会に「悪意」などあるはずがないと信じれば、毅然とした政治的対応など必要なくなる。また、諸外国に「危険と悪意の存在を認めると、対決を余儀なくされるので不安だ」というなら、まさに危険に目をつぶる「ダチョウ」である。
日本人が、もはや地域社会や国際社会の不安全な現実に立ち向かう気概を失っているとすれば、憂慮すべきことである。
冷戦後の国際社会の構造は、日本にとって極めて深刻な状況に向かいつつあるにもかかわらず、目の前の経済動向に翻弄されている。また、かつては世界でも有数の治安状態のいい国だった日本が、伝統的社会規範や道徳の崩壊から、今や自分のためには家族でさえ傷つけるような危険な社会へと変貌しつつある。
戦後、日本人の精神が荒廃した根源は教育にある。戦後の教育は、教育基本法によって憲法の思想を普及することに主眼を置いた。その憲法の思想とは何か。たとえば、憲法九条だ。この戦争放棄をうたった精神は、インド独立運動のガンジーのように、自己を犠牲にしても武器の前に無抵抗で戦う崇高なる非暴力の精神とはまったく無縁のものである。九条は人権という美名の下に、社会集団に対する犠牲的精神を嫌うエゴイストを正当化し、「侵略国の国旗を掲げて歓迎することはあっても、戦いは放棄する」という「精神価値の放棄」を日本人にあたえた。これは、奴隷的精神である。敵意のあるものに対して、一方が「戦わない」と宣言したからといって、平和でいられることなど、現実にはありえない。いじめっ子に、無抵抗でいたらどうなるか予想がつくはずだ。
憲法九条の精神では、同胞が拉致され、その家族が苦悩している状況を自らの問題として考えることもなく、ましてや理不尽を正すためには戦いも辞さないという発想はまったく出てこないだろう。
結局、戦後の日本人が憲法精神に従って放棄したのは「戦争」ではなく、「戦うことも辞さない正義心を持った生き方」なのではないか。
「世のため人のため」に精一杯尽くすことを良しとし、「少なくとも人様に迷惑をかけないように」と教えていた日本の社会道徳は、「自分のためだけに生きる」憲法思想に取って代わられ、上から下まで自己の欲求を最優先する輩が日本を占有している。
日本人本来の美しくて強い精神文化である「家族のような国を創ろう」という神武天皇建国の精神や、「正しいと信ずることを貫き通すためには、自分の肉体の生死など気にかけない」という武士道の犠牲的精神は憲法思想の敵として追い詰められてきた。
経済成長と経済効率がすべてで、何事も金に置き換えて価値判断するようになった戦後の日本人は、金儲けのためには戦うが、公共の理念や正義のためには戦わない。最近は、個人の利益のためにすら戦わない無気力な人間がいるようだが、戦わない種族は保護でもされないかぎり絶滅する。
現在、大きな問題となっている環境破壊も、日本人の自然観が、自然との調和から経済効率優先に変わったことに原因がある。これは、異常発生したバッタの群れが、植物を食い尽くした挙げ句、自らも死んでいく有様に似ている。
経済活動を優先するあまり、貴重な日本の山野が破壊され、そこに根付いている土着の伝統文化が瀕死の状態に陥ってしまった。恐竜が絶滅したのも、欲望をコントロールできずに巨大化し、子孫を持続的に維持する限界以上の食物を食い尽くしたことも一因にちがいない。
本来、自然こそ最大の公共財であり、我々自身も自然の一部であることを自覚しなければ、人類も同じ結末を迎えるだろう。
人権や自由という装飾された表層の陰にあるもの、つまり、個人の富の獲得を目的とし、すべての価値観をマネーで評価するグローバル資本主義がその本性を現した。その波に吞み込まれた日本人が、本来の日本の心を見失ったまま、金に狂ったバッタの群れに食いつぶされるのを傍観するわけにはいかない。
私は、この本を通じ、グローバリズムの抱える問題を素材として、日本人が歴史的に構築してきた自然観と人間観が、現代および将来の社会に極めて重要な意義を有していることを伝えたいと思う。ただ、日本人の自然観と人間観というのは、自然の神々から与えられた清純な感性であり、この心の感覚を、人が作り出した、いわゆる理論的な方法で伝えるには限界があって、うまく伝えることができるか不安がある。
私の文章の拙いところは、どうか読者の皆様の洞察と感性で補っていただき、一人でも多くの日本人が、神話からつながる日本文化の真価を取り戻し、暗雲におおわれた現代の世界に、地球の未来へとつながる明かりを灯すことができればと願ってやまない。
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