top of page
検索
yomei

814 日本人の真価 大丈夫(ますらお)の精神

日本の戦闘者3 荒谷卓

ストライクアンドタクティカルマガジン 令和元年5月号より


 現下の日本は、国際秩序はもとより自国の憲法さえ自ら確立することを放棄して、与えられたルールの中で、プレイヤーとして上手くやっていくことに専念している。しかし、所詮プレイヤーは、ルール・メイカーの手のひらで踊るだけである。

 市場の自由競争を、単純な経済競争と考え、経済政策と経済活動だけで勝負したところで勝ち目はない。自由競争とは、軍事力も含むあらゆる力を自由に行使してルール(法秩序)を創った者が勝つのである。「武」を無視した経済も政治もない。いい意味でも悪い意味でも、「武」なくして秩序の構築は不可能である。

 ここでいう「武」とは自らの思考と行為に関して主体的に規範を確立する気概と実力である。自ら価値規範を確立し、それを実践するところに日本の戦闘者のもっとも大事なものがある。


 当然ながら、自らの人生を全うする価値規範を主体的に確立し実行するためには、勇気と気概がいる。日本の戦闘者の精神とはこの勇気と気概のことだ。この精神を「ますらお」という。神武天皇の長兄五瀬命(いつせのみこと)が自らを「ますらお」とよんだのが始まりだ。

 以来、神武天皇とともに東征し戦ってきた大伴氏、佐伯氏等も、自らを「ますらお」と自負している。この「ますらお」という大和言葉に漢字を当てて「益荒男」とする場合は猛々しい容姿を表現し、勇ましい精神を表現するには「丈夫」とする。その精神が著しく優れている者は「大丈夫」と現す。

 つまり、武士道精神の根幹は、何時如何なる状況にあっても「大丈夫」の気概を体顕できる者である。

 奈良時代の宿禰(武人)大伴家持は、大丈夫とは如何なる者かを万葉集に和歌で綴っている。『海行かば』の歌の原文である。


『大伴の 遠つ神祖(かむおや)の

 その名をば大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)

 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生す屍

 大君の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじと異立(ことだ)て

 大夫(ますらを)の 清きその名を  古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に

 流さへる 祖(そ)の子ども 大伴と 佐伯の氏は

 人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず

 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ

 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き

 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り

 我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる』


 俺さえいれば日本の守りは大丈夫という気概である。


 また、鎌倉時代の末、幕府の腐敗を憂い北条高時討伐を決した後醍醐天皇が、幕府の圧倒的武力の前に、京を脱出し笠置山に身を隠された折、楠正成を御召になった。その際、天下の情勢と幕府に勝つ術ありやとの後醍醐天皇の御下問に対し、楠正成は次のように答えた。

『北条高時の大逆天ちゅういたすに仔細なし。天下草創の業は武略と知謀の二つ。勢力では勝つこと得がたいが、謀ならばおそるに足らず、合戦の習いにて、一端の勝負のみをお気に召されるな。正成一人なお生きていると聞こえ召せば、聖運ついに開かれるべしと思し召せ』と。

 正成一人生きていれば、後醍醐天皇の御志必ず達成できるとの「大丈夫」の気概を示したのである。そして、事実、できるはずもないと思われた鎌倉幕府の転覆を、正成はやってのけた。


 さらに時を経て江戸幕末、官軍と徳川の関係が隔絶の中、徳川慶喜は恭順・江戸城明渡しの意を西郷隆盛に伝える使者として山岡鉄太郎を呼び出し、朝敵の命が下ったことを落涙して嘆いた。これに対し山岡は、「何を弱きつまらぬ事を申さるるや。謹慎とは偽りで何かほかにたくまれし事でもあるべきか」と問質すと、徳川慶喜は「別心はなし、如何なることにても朝命に背かざる無二の赤心なり」とこたえた。この段に及んで山岡は「真の誠意を持って謹慎のことなれば、朝廷へ貫徹し疑義の念を氷解するは無論なり、鉄太郎においてその辺はしかと引き受け、必ず赤心の様尽力いたすべし。鉄太郎目の黒き内は決してご配慮あるまじき」と断言した。

 そして、すでに江戸総攻撃の官軍の先鋒が品川まで到着し、桐野、篠原、村田等薩摩の猛将がその中に在るところを「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、総督府へまかり通る」と大音上げて通りぬけ西郷隆盛と面接し談判して江戸無血開城の任を果たす。

 後に西郷隆盛はこのときの山岡のことを『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。去れどもさ様の人は、凡俗の眼には見得られぬ。道に立ちたる人ならでは、彼の気象は出ぬ也。』と記したとされる。

 楠正成にしても、山岡鉄舟にしても、一人の「大丈夫」の気概と行動が歴史を動かしたのだ。


 日本人の大丈夫の気性は、近代以降も戦争において遺憾なく発揮されている。先に書いた日露戦争時の日本の戦闘者の勇往な戦い方しかり。また、大東亜戦争時も日本人の不撓不屈の戦いぶりに、硫黄島で圧倒的に優勢な米海兵隊が、飯も弾薬もない日本兵に戦闘で負けた。物量と兵力量で圧倒していた米軍は、かろうじて硫黄島は占領したものの、日本本土が近付くにつれ日本兵の抵抗はすさまじさを帯び、米兵は恐怖して精神障害者が急増し戦えなくなった。そこで、原爆を落とし日本人無差別大量殺戮をしたり、ヤルタ会談で日本の領土提供をちらつかせソビエト軍に対日参戦を懇願したのだ。本土決戦まで持ち込めば確実に日本が勝てたことは、後のベトナム戦争を見ればわかるだろう。


 この日本人の精神力が現在の日本の抑止力になっている。日本が今平和であるのは、決して平和憲法、あるいは日米同盟のおかげではない。憲法に戦争放棄を書けば平和を獲得できるのなら他の国々も同じ文言を自国の憲法に定めるはずだが、日本の憲法を真似した国などは無い。また、同盟関係の有効性は国際政治によって変化する。歴史的に親中派の多い米国は、日本より中国が将来性があり重用だと見ている。国益を常に優先する冷徹な国際政治の歴史を見ずに、希望的に日米同盟が日本を守ってくれるなどと考えているのは一部の日本人だけだ。


 我々日本人の祖先が歴史に残した日本の戦闘者の凄まじい戦い方こそが、日本の抑止力なのだ。それを体現できる「大丈夫(ますらお)」の精神を持った日本の戦闘者こそ、日本の救世主である。

閲覧数:1,387回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page